まじかる科学探偵団

作者: Yuki Neco

第6章 光子の大失敗

光子は知世のボディガードが運転する白いメルセデスの後部座席に座って大同字形の邸宅に向かっていた。 彼女はメモリスティック数本とノートパソコンを持って車に乗っている。 星和大学を出て20分ばかり経ったところで、栗山大学で手に入れたSDカードを忘れてきたことに気づいた。
「あ、忘れた!」
「どうかなさいましたか? 引き返しましょうか?」 運転手の女性が訊いて来た。
「すみません、大丈夫です。 大道寺さんのお宅まで進んでくださいな。」
光子は、ため息をついて心を落ち着かせながら考えた。 「データはすべてこのパソコンに読み込んだから大丈夫だわ。 犯人はあたしと理論を狙っていて、今もその策を考えているはず。 時間がないわ... あと、どれくらいの時間が許されるかしら。」

メルセデスは大道寺家の邸宅の門を通過し、玄関に続く小道を走った。 玄関先で車がブレーキを軋ませて停まると、ドアが開き、知世と二人の家政婦が出てきた。 時刻は既に午後11時半になっていた。
「大道寺さん、こんばんは。」 メルセデスから降りた光子が挨拶した。
「有賀さん、こんばんは。 うちにいれば大学より安全ですわ。 さ、どうぞ中へ。」 知世は淡色の髪の友人の背中を押して家の中に入れた。
「ご迷惑をおかけしてすみません。」 光子は階段を上りながら謝った。
光子が案内されたのは2階の部屋だった。
「このお部屋を使ってください。 今日は疲れたでしょうから、シャワーを浴びておやすみなさい。」
「ありがとう、大道寺さん。」



翌朝、メールのチェックをしていたさくらは嬉しそうな声を上げた。
「小狼、中川さんからデータが送られてきた。 ほら。」
小狼はさくらの作業机に走ってきた。
「いろんな地方出身の俳優にセリフを喋らせて録音してくれたんだな?」
「うん、いろいろな訛りの音声パターンが入っているはずよ。」 さくらは嬉しそうにファイルのリストに目を通ししている。
「これで先週、光子さんを襲った犯人の平坦な喋り方が特定できると思うの。 今日は忙しいよ。」
「よし、それじゃ、訛りのパターン抽出だ。」



ちょうどその時、光子は用意してもらった部屋に運び込んだ何枚ものホワイトボードに一心不乱に数式を書きなぐっていた。 部屋にはほかに誰もいない。 おそらく、ボディガードはドアの外に立っているのだろう。 彼女は徹夜で作業していたのだろう。 目が充血していた。 左手に実験データのグラフを印刷した紙を持って、彼女はホワイトボードに次から次へと、生成演算子だとか消滅演算子だとか象形文字のような記号でいっぱいの数式を書き連ねていく。 時折、後ろに下がり、直線と波線でホワイトボードの左下端に描いたファインマンダイアグラムを眺める。 ダイアグラムと方程式を充血した目で見比べると、光子はにやりと笑った。

「もうすぐだ!」
大また歩きでホワイトボードに近寄って、赤マーカを手にとると、方程式の打ち消しあう項を左上から右下への赤斜線で消した。 続いて等号を書くと、方程式の続きを書き、ついに、Q.E.D. と書きながら、「証明終わり」 とつぶやき、くすくすと笑った。
「これだわ! あたしの数学形式が実験データを説明できた! あは... あははは...」
光子は後ろによろめくと、笑いながら仰向けにベッドに倒れ込んだ。
「理論の完成だわ!」
光子のかすかな笑い声は、徐々に大きく、最後に甲高い笑いに変化した。 何がおかしくて笑っているのか自分でもわからないが、彼女は笑い続けた。

ドアにドンドンとノックがあり、外から声が聞こえた。 「どうかなさいましたか?! 大丈夫ですか?!」
外にいたボディガードが笑い声を聞き、心配になって中にいる女子学生に声をかけているのだ。
「大丈夫です。 知世さんをここに呼んでください。」 気持ちを取り戻し、彼女は大きなため息をついて答えた。



小狼とさくらの訛りパターンの抽出の作業は三時間を要した。
「よし、抽出作業はこれで終わりだ。」 小狼は深くため息をついた。
「照合作業にかかる前に、ちょっと休憩しましょ。」
「そうだな。」

あいつは、栗山大学でSDカードを手に入れて、急に忙しそうに作業するようになった。 それから、父親からのメールが来てすぐにますますあせって仕事をしている。
小狼は、光子の行動の変化に釈然としないものを感じていた。 なにが彼女をそんなにあせらせているのか、見当もつかなかった。
「おい、さくら、有賀教授からのメールになにか重要な情報でも書いてあったのだろうか? あいつはまったく話してくれなかったが。」
「重要な情報?」
「ゆうべは、本当に急に事務所を出たいと言ったよな。 一方、有賀教授が二、三日で現れるとも。 教授が現れたら何が起きるんだ? あいつはそれまでに何をしようとしているんだ?」
「光子さんが心配なの?」 さくらは小狼の顔を覗き込んだ。
「それは... そうだな。 大道寺の家にいるからセキュリティ的には問題ないが、あいつ、一睡もせずにがんばってるんじゃないか。」
さくらは、昨日まで光子が作業していた机を見ながら言った。
「何のためにあんなにがんばっているか見当もつかないの。 光子さんのお父さんの研究って、悪い人たちが手に入れたいと考えるような重要で危険な研究なのかなぁ?」
「俺たちの理解を超える範疇だよな。 ま、俺たちは俺たちのすべきことを進めよう。 抑揚のパターン照合を始めよう。」
「そうね。 今日の作業は山崎君のソフトに頼りっきりで、さくらカードの出番はなさそう。」 とさくらは笑いながら言った。



光子が待っている部屋に大道寺知世が駆け込んできた。 光子は淡色の長い髪が顔の上にかぶさった状態でベッドに横になり、周りにはグラフや方程式を書いた紙が散乱していた。
「有賀さん、徹夜で作業してたんですね?」 知世は心配半分、あきれた気持ち半分で訊いた。

「ええ、でも...」 光子はホワイトボードを指差す。 「結論が出ました。」
「よかったですわ。 それじゃ、ゆっくり休んで...」
「いえ、まだ終わってません。 大道寺さん、あたしにはまだやることが残っています。」
こんな方程式に隠れた情報を引き出せたというのに、さらに何をするつもりでしょう?
「大道寺さん、中継局を準備してください...」 光子は知世に話し始めた。
「え...? 中継局って... テレビとかの?」
「そんな大きいのじゃなくて... 実は...」 光子は知世に耳打ちした。



「この結果は!」 音声データから抽出した抑揚のパターンの照合結果を見て小狼は声を上げた。 音声データは、様々な地域出身の役者にセリフを喋らせて録音したデータである。 その地域とは、東北、関東、東海、近畿、四国、九州と全国の地域を網羅していた。

「ほう、多くの出身地の役者に喋らせてパターン解析とは考えましたね。」 結果を見に来た松崎憲次が感心して言った。
「しかし、襲ってきたやつらの抑揚がどの地域とも大きな類似性を示していない。」 と小狼が言った。
「抑揚が少ない地域は確かにあるんだけど、それでも類似性が低いんです。 それよりも面白いのは、アマチュアの下手な役者が喋る棒読みの抑揚に近いことがわかったんです。」 さくらが報告した。
「ああ、平坦な抑揚からやつらが芝居をしていたと気づけばよかったんだが、二人組みに拉致されそうになって怖かったと有賀から聞いていたから、やつらが本気だと思い込んでいた。 それともう一つ。 襲ってきたやつらは、ある一瞬には抑揚のある喋り方をしていることもわかった。」 小狼は再生ボタンをクリックし、光子が録音したデータを再生した。

大声出すと、ただじゃおかねえぞ。   (犯人の声)
んんん!    (光子のうなり声)
お前、何か隠してるな?!    (犯人の声)
やめてよ。 あたしを誰だと思ってんの?    (光子の声)
時間がねえぞ。 車に運べ。    (犯人の声)

「これだ。 『何かを隠しているな』 という台詞だけは四国地方の訛りに近い。 他の台詞にはなかった抑揚だ。 つまり、犯人はあらかじめ用意していた脚本どおりに喋っていたのだが、『何かを隠しているな』 というセリフは脚本でなく、有賀の行動を見て不意に出た言葉に違いない。」
「つまり、この照合結果から、犯人は有賀さんを襲ったフリをしただけだということ?」 松崎は腕組みをして尋ねた。
「そうなんだ。 犯人が芝居してたってもっと早く気づくべきだった。」 小狼は悔しそうに言った。 「なんで、こいつらはこんな安っぽい芝居をうったんだろう?」
「率直に考えるなら、藤崎徹ね。」 とさくらは言った。
「藤崎は光子さんに近づくためにあんな芝居をでっち上げたのよ... 有賀教授の情報を得る目的で。」
「なら、藤崎を捕まえて問い詰めるか。」 小狼はいらついた様子で歩いた。
「あせってはダメだ。 犯人の抑揚のパターンだけから藤崎が仕組んだと繋げる理屈は客観性に欠ける。 これで問い詰めても言い逃れされるだけだ。」 松崎が助言する。
「確かにそうだな。」
「それじゃ、次の仕掛けをしてくるのを待ち構えるしかないのね。」 さくらは唇をかむ。



光子は目を覚ました。 ノートパソコンで作業をしている間に1時間ほど眠ってしまっていたのだ。 時刻は午前4時くらい。 結局、前の日もほとんど寝ていなかったので、光子は強い眠気を感じていた。

「あと数時間で完成する。 終わったら星和大学に戻って李さんと木之本さんに会おう。」 と、眠気の中で光子は考えていた。
ちょうどその時、光子にメールが届いた。 新しく届いたメールをチェックすると、光子は驚きのあまりに息を飲んだ。
「な... これって、またお父さんからだ。」 驚いてメールを読むとその驚きはさらに大きくなった。 というのも、星和大学を出る直前に受け取ったメールとまったく同じメールだったからである。
「もしかし...」 光子は目を大きく開き、頭から汗が噴き出した。
「光の速度のパスワードを誰かが解決したのかも。 栗山大学で手に入れたSDカードが盗まれた?」
SDカードが盗まれたなんて信じたくないことだったが、光子は思い出した。
「そうだ。 SDカードを事務所に忘れてきたんだった。 まさか、事務所に犯人が押し入ったの?」

ちょうどその瞬間、光子のケータイ電話が鳴った。 ケータイ電話に出ると、さくらがあわてた様子で話している。
「臨時事務所が襲われたの。」 さくらは早口で喋っている。 「油断してたの。 昨夜はみんな事務所から引き上げたの。 きっと犯人は、事務所に忍び込むタイミングを狙っていたのよ。 でも、光子さんが大切なデータをノートパソコンごと持ち出してくれたから、データは大丈夫だけど。」
「あの... 木之本さん。 言わないといけないことがあります...」 光子は罪の意識で震えながら話し始めた。 「あたし、事務所にSDカードを忘れてたの。」
「え? 犯人がSDカードを見つけた可能性は?」
「ま、間違いなく、見つけてる。」 光子はパニックになりながら話した。
「さっき、メールが届いて... 大道寺さんの家に来る前に受け取ったメールと同じメールで... あたし... こめんなさい... それって、犯人がパスワードを解決した証拠なの。」
「なんですって?!」
「ごめんなさい。 すぐに、星和大学に行きますから。」 光子は電話を切った。

どうしよう? 他にあたしヘンなことしてないかしら?
大道寺さんの家に来る前にしたことを思い出すのよ。
その夜、お父さんからのメールを受け取って、メールの添付ファイルをダウンロードして、そのデータをどうした? このメモリスティックにコピーして... ちょっと待って。 最初、コピーに失敗した気が... コピーをやり直したもの。 どんな失敗? あたしは何を...?
大変だ! あたし... 間違ってそのデータをSDカードにコピーしちゃったんだ!
ということは... 犯人は最終データも手にしたということ。 最終データへのパスワードを解決していないといいんだけど...

「大変! ボディガードさん、星和大学へ今すぐ連れて行ってください!」 光子は泣きながらヒステリー気味に声を上げた。



光子と知世は白いメルセデスの後部座席に飛び乗った。 自動車は早朝の通りを大学に向かって急いだ。 光子はノートパソコンとメモリスティックを持っていた。 罪の意識で泣きながらも、光子はノートパソコンでの作業を続けた。

自動車が大学の駐車場に入って停車すると、光子と知世と二人のボディガードが物理学科にある臨時事務所に向かって移動を開始した。 自分の失敗が、仲間の協力と自分の仕事を台無しにするかと思うと、ノートパソコンを腕に抱えた光子は泣いてしまうのであった。

そんな彼らの行く先に、小笠原美澄と藤崎徹が立ちふさがった。 美澄は挑発的な目つきで話しかけた。 「あら、有賀光子さん。 お早いのね。 でも、涙なんか流して、どうなさったの?」
「泣いてなんかないわ! ちょっと通しなさいよ。」 いらついた様子で光子は返事をした。
「あらまあ、藤崎さんは、今日は眼鏡なんですね。」 と、知世が藤崎に話しかけた。
「それは...」
「コンタクトをなくしたんですって。 やーね。」 美澄は藤崎の代わりに答えた。 「でも、眼鏡よりコンタクトの方が似合うのにね。」
「急いでるの。 そこ、どいて!」 光子は知世たちと一緒に事務所に向かって走り始めた。

光子が事務所のドアを開けると、中でさくらと小狼と松崎が待っていた。 作業の疲れから入り口で足がもつれた光子は倒れた。 それを小狼が胸で受け止めた。
「あ... ご、ごめんなさい。 あたし、運動神経悪いから...」 光子は涙目で赤面した。 不自然な体制ではあるが、光子と小狼が抱き合っている姿勢であることに間違いはない。 標準的な身長である光子の体が、小狼には小さく感じられた。
ほんの一瞬だけ、小狼は胸が高鳴った気がして、彼女をまっすぐ見れなくなった。 彼女から目をそらして、彼女の危うい腕からノートパソコンを取って、小さい声で言った。 「気をつけろよ。 こいつにはおまえの仕事が入っている。」

さくらにとっては衝撃的な光景だ。少女漫画の一場面を小狼がほかの女性と演じているようだ。目の前での出来事をきっかけに、最近の小狼の言動の変化を思い返したさくらは気分が悪くなった。 「あの女は魔性の女。」 頭の中で小笠原美澄がささやいた。 「彼の心は奪われ始めてるわ。」
何を考えてるの? ただ、躓いて倒れたところを起こしただけじゃない。

さくらの悲しい表情に気づき、小狼は後ずさりした。 当然のように、光子は地面に倒れてしまう。
「なんなのよ...」 地面を爪でつかみながら光子はうなった。 予想外のひどい仕打ちを受けたことが幸いして、光子は泣きたい気持ちから少しは解放された。

松崎は現場に関する説明を始めた。 「昨夜、誰かが事務所に入った。 犯人は何かを物色し、その途中で書棚のガラスを割って逃走した。」
続いて小狼が言った。 「有賀はSDカードを忘れて言ったんだってな。 どこにカードをおいたか覚えているか?」
「引き出しの中よ。」 彼女は引き出しを開け、SDカードが本当に盗まれたことを確信した。
「あたしのせいだ。 もう、最終データも一緒にSDカードが犯人の手に渡ってる。 最初のパスワードも解決されたのよ。」
「最初のパスワードってどういう意味だ?」 小狼が訊く。
「大道寺さんが、多層パスワードブロックだって言ったのを覚えてる? 最初のパスワードとは、あたしが光の速度だといって解除の実演をしたあれ。 今朝、あたしが最初のパスワードを解決したときと同じメールを受信したの。 それは、犯人たちが最初のパスワードを解決した証。」
「それで、SDカードには最終データが入ってるんでしょ?」 さくらが声を低くして言った。
「あたしのバカなミスなの。 ごめんなさい。 二番目のパスワードを解決されたら、最終データにアクセスされてしまう。」
「まだ解決されてないんですよね?」 知世が尋ねた。
「と思うけど...」 光子は再び泣き始めた。
「まだ解決できていないなら、犯人は何かをたくらんで我々に接触してくるはずだ。」 松崎が言った。
「松崎助教授の言うとおりだ。 手がかりを見つけて犯人を追い詰めるんだ。 この現場から。」 小狼はそういうと、光子にハンカチを差し出した。 「だから泣くな。 おまえだけの責任じゃない。 俺たちは昨夜、この事務所を空にした。 おまえがいなくなって油断してたんだ。」

「あ、あたし、藤崎徹を見つけてくる。」 さくらが切り出した。
「ダメだ、それには証拠が足りない。」 小狼はさくらを落ち着かせようとする。
「そんなの、捕まえて問い詰めればいいじゃない。」
「待て。 さくら、頭を冷やせ。 事務所に押し入って、何らかの痕跡を残しているはずだ。 これは、やつらの尻尾をつかむチャンスだ。」
「もう時間がないんだよ。 今にも、犯人はパスワードを解決する。 あたし一人で行く!」
「ダメだ。 もしやつが犯人だとしたら危険だ。」
「あたしには危険を乗り切る力がある。 小狼は、隣にいるか弱い女性の心配をしていればいいのよ。」 さくらはそう言い捨てて、両手で鼻と口を押えて事務所から走って出た。

「あいつ、なに怒ってんだ?」 小狼は理解できないといった表情をした。
「彼女は大丈夫なのかい?」 松崎が心配して訊いた。
「さくらちゃんは大丈夫ですわ。」 知世は小狼のほうを振り返って、いつもの彼女とは違う強い口調で小狼に詰め寄った。 「そんなことよりも、今回の事件で一生懸命なのはさくらちゃんも同じはずですわ。 この事件に関して、さくらちゃんにありがとうとか、ねぎらいの言葉とかちゃんとかけてあげましたか? 李君とさくらちゃんはずいぶんと長い間、一緒ですから、長くて近すぎるからこそ、知らないうちに相手をいたわる気持ちを失いやすくなっていることを忘れないで。」
知世の言葉に対して、小狼は言葉を返すこともなく、部屋を歩き始めた。 しばらく天井を見て、視線を床に落とした。 それから小狼は、ゆっくりと話し始めた。
「そうか... 俺が間違ってのかもな... おれ、さくらを探してくる。」
小狼が行こうとすると、知世は小狼の手をつかんで軽く腕を引っぱり、首を横に振った。
「ダメですわ。 さくらちゃんに考える時間を与えてくださいな。 一時間もすれば落ち着いて、そんな危険を侵さずに戻ってきてくれますわ。」


閉じる