作者: Yuki Neco
松崎助教授の提案により、桜狼探偵事務所は期間限定で星和大学に事務所を構えることになった。 依頼者である有賀光子と、新しい支援者である松崎憲次が星和大学の関係者であるので、活動拠点を星和大学に移したほうが都合よかったからだ。松崎は、さくらと小狼にセミナー室を事務所として使用することを許可したのだ。
セミナー室を臨時の事務所に改装するのは一般の職員や学生が少ない土日を利用した。 松崎助教授は、緑ヶ丘大学との短期間共同研究のためにセミナー室を使うと事前に助手に言っておいた。
大道寺知世の実家が経営する大道寺トイズの関連会社からの協力のおかげで、改装は急ピッチに進み、日曜の午前中にはセミナー室は臨時の事務所に姿を変えてしまった。 その人、午後すぐに、臨時事務所での第1回ミーティングが開催された。 出席者は、木之本桜、李小狼、有賀光子、松崎憲次、大道寺知世の5名だった。 ミーティングの主な議題は、SDカードと超常現象研究会についてだった。
空欄を埋めて神が創造した数値を完成せよ。
空欄を埋める際にはパソコンをインタネットに接続しておくこと。
2 9 9 7 9 _ _ _ _
「SDカードにはこんなページが入っていたの。 大道寺さんが言うように、次の情報につながるパスワードのダイアログみたい。」
「それって、数列か何かだろうか? フィボナッチ数列みたいな。」 小狼が発言する。
「神が創造した... 自然法則に関する何かかな?」 さくらはよくわからない表情をして、下を向いたまま発言した。
「神が創造した数値か... 物理定数を意味しているみたいだね。」
「そう、木之本さんと松崎先生のおっしゃるとおりと思います。」
光子は楽しそうに会議机のまわりを歩いた。「うふふふ、このメッセージには2つのヒントが隠されているの。 その一つが、神が創造した数値。 つまり、木之本さんと松崎先生の推測どおり、物理定数を意味しています。」
「それで2つ目のヒントとは?」 小狼が質問した。
「ここですよ。」 光子は、レーザポインタでその場初を指し示す。
「完成せよ...って言葉。 ふふふふ... これは、その物理定数が9桁の数値で厳密に表現できるということ。 近似値ではないことを意味してるわ。 その条件に合う物理定数なんて1つしか思いつかない... それは... 光の速度よ!」
松崎教授は深く息をつきながら、目を大きく開いてうなずいた。
さくらと知世は、話の内容が理解できないものの、光子の話しぶりの迫力に感心していた。
「それでは、この数値を完成させた結果を実演したいと思います。 えっと、このパソコン、ネットにつながります?」
「そこにケーブルが来てるよ。」 松崎が机の足元に来ているLANケーブルを指差した。
小狼はケーブルをつかむと光子にわたし、光子がパソコンのソケットにケーブルを差し込む。 何の躊躇もなく光子は数値を入力した。 完成された数値は299792458だ。 Enterボタンをクリックすると、新たなページが表示された。 次のメッセージが書かれていた。
わが娘よ、よくやった。
このパスワード解決したのが他の者でないことを信じる。
さて、次の連絡を待て。
「多層パスワードブロックですわ。」 知世が胸の位置で両手を握って目をキラキラさせている。
「なんのために?」 小狼が訊いた。
「次のメッセージは光子さんにメールでなのか、直接電話があるのか、それともほかの手段なのか知りませんが、必ず来ます。 これは、たとえSDカードが盗まれて犯人がパスワードを解決しても、次の情報がその悪い人に行かないためですわ。 賢い方法ですわ!」 知世は多層パスワードブロックと (勝手に) 呼んだ方法を賞賛した。
もう一つの不可解なこと。 研究会にはいくつもの計測器があったことだ。 さくらが兄の桃矢から聞いた情報では、その手の計測器は非常に高価で、学生だけで運営している研究会が買えるような装置ではないのだ。 どうやって、研究会が計測器を入手できたのか?
小狼も調査結果を報告した。 小笠原美澄は藤崎のサークルだけでなく、他のサークルにも顔を出していた。 それらのサークルには一つだけ共通点があった。 それらのサークルは美澄がカレシと呼んでいる男子が部長をするサークルだった。 「やっぱり! やっぱり、何人もカレシを囲ってたのね!」 光子はあきれたように声を上げた。
「その小笠原ってどんな子なの?」 松崎が訊いた。
「早い話が有賀のライバル。」 ぶっきらぼうに小狼が答える。
「そんなことより、彼女は何をたくらんでいるの?」 さくらは嫌気が差したように言った。
「えっと、小笠原さんのお父さんはコンピュータソフトの会社の社長さんだそうですわ。 本人は顕示欲が強くて、真っ赤なスポーツカーに乗っているのだとか。」 知世が情報を提供した。 それに小狼が続く。
「俺が調べた情報によると、そのカレシのクラブにお金を入れているそうだ。」
「月にどれくらい払ってるの?」 光子が質問した。
「クラブ1つあたり、月に5万円くらい。」
「そんな額じゃ、二、三年貯金したとしても計測器は買えないね。」 さくらが言った。
「計測器の出所について、研究会には計測器を供給する何者かがいるってことか。」
小狼は腕を組んでしばらく考えた後、声を上げた。
「ほかの情報だ! そうだ。 有賀には小笠原という敵がいる。 有賀教授にも同様に敵がいるんじゃないのか?」
すると、松崎が挙手して発言する。 「猪本寛治教授。 この大学で、有賀先生と同じ宇宙論を研究なさっている先生がいる。 二人が学会で顔を合わせると大きな論争になるらしい。」
「一人や二人は敵がいると思ってた。 娘の性格を考えると、その父親に敵意をもつ人間がいることに不思議はないよな。」 小狼はにやりと笑った。
「ちょっと、どういう意味よ?!」 光子は立ち上がって抗議したが、松崎が視線に入ると、急に黙って赤面した状態で膝に手を置いて座った。その態度の変化に気づいたさくらと知世は
にやりと笑っている。
「とにかく、郊外にある超常現象研究所と、この大学の猪本教授を調べないとな。」
ミーティングの後、光子は臨時事務所の奥でコンピュータを操作していた。 SDカードのデータの確認をして、紙の上で方程式を書いて計算して、数式と文章を入力して忙しそうに働いている。
「有賀はどうしたんだ?」 小狼がさくらに尋ねた。
「さあ。 SDカードを手に入れてから、あの様子なの。」 さくらも見当がつかない様子だ。
「今朝のミーティングの報告すごいな。 ふう、物理学のことになると、ホントにやるんだな。」
「理系ができる女性ってカッコいいよね。」
「他の事になるとちょっとヘンだけどな。 あのルックスだから、黙ってればすごくもてるんだろうけど。」 小狼は冗談っぽく笑った。
さくらは特に返事もせず、瞬きをした。 小狼が他人のことをそんな風に言うのは今までと違うと感じたからだった。
一方、さくらは小狼に、一緒に中川容子に会い行って欲しいとお願いした。 中川容子はさくらの兄の桃矢の高校時代の友人で、当時は演劇部の部長、今では女優である。 なぜ、中川容子に会うのかと小狼が尋ねると、さくらは、会ってみればわかると答えた。 その日は、臨時事務所に知世のボディガードを2人配備して光子を残し、二人は中川容子に会いに行った。
光子と小狼は最後部の席で授業を聞いている。 猪本教授って大柄だな。 この先生とお父さんってどうして仲が悪いんだろう? と光子は考えていた。
「有賀、授業が終わったら、教授のあとをつけてオフィスに入る直前で声をかけるんだ。 第一の目的は長話をするためにオフィスに入ることだ。」 小狼は隣に座っている光子に耳打ちした。
「うん、オフィスに入る直前ね。 わかった。」
調査に入っても、猪本はフレンドリーに話をしてくれた。 彼が有賀教授の宿命のライバルかという問題に対して、猪本は微笑みながらそうだと答えた。 その返事によると、猪本は有賀教授の研究者としての能力を認めているからこそ、ライバルなのだ。 二人とも、ほとんど同じ研究題材を扱っているからこそ、微妙な意見の違いから時には大論争になるし、どちらの論文が早かったということでもめたりもすると話してくれた。でも、有賀教授をねたんだり、恨んだりしたことは一度もないと猪本は答えた。
二人の学生は、思いがけない成果も得ることができた。 それは、郊外にある超常現象研究所の情報だった。 その研究所の運営をしているのは、猪本教授の息子だったのだ。 息子の名前は猪本俊和、年齢は35歳らしい。 俊和は豪邸を所有し、研究施設として改装した。 猪本父の話によると、超常現象研究所と言うのは正しい名称ではない。 俊和の主な関心は核融合発電のような物理学応用であって、超常現象は暇つぶしの趣味のようなものらしいのだ。 さらに、大学内に設立された超常現象研究会について訊いてみると、猪本教授は聞いたことがないと答えた。
「ところで李君、一つ忠告しておこう。」
「なんですか?」
「有賀先生は娘さんのことになると、すごい心配性なんだ。 デートばかりして先生を苦しめないでやってくれ。」
「違いますよ、猪本先生。 そうじゃないんです。」 光子が答えた。
「二人は恋人同士ではないのかい?」 猪本は訊き返した。
「うふふ、ただの知人です。 李さんには他の大切な人がいるんですよ。」
「はっはっは、そうか、それならお父さんにとっては、逆に朗報だったね。」 と、大柄の猪本教授は笑った。
小狼とさくらは臨時事務所の反対側で話し始めた。 最初は意見が対立しているようで、言い争っていた。 小狼は、光子を近くにおいて自分が守れるようにしたいと言っている。 さくらは、マンションじゃないにしても、彼女が希望する形にできないかと主張した。 数分後、さくらはケータイ電話を取り出し、電話をかけた。 電話が終わると、パートナーに話しかけた。
「ほら、小狼。 常に選択肢はいくつもあるのよ。」
「わかったよ、さくら。」 そう言うと、小狼は光子のそばに歩いてきた。
「おまえを大道寺の家に送る。 作業に必要なものをすべて用意しておけ。」
小狼の指示を受けて、光子はメールに添付されたファイルをメモリスティックにコピーしようとした。 コピーはドラッグ・アンド・ドロップの単純操作だが、焦っている時には単純操作にもミスが起きる。
「ちょっと、そっちじゃないってば。」 光子はイラついて声を上げた。 まちがってSDファイルのフォルダにファイルのアイコンをドロップしたのだ。 メモリカードをスロットからはずし、もう一度コピーを試みた。
「終わり。 これで、必要なデータはすべてノートパソコンと、バックアップ用のメモリスティックに入ったわ。」