時の道すじ

原題: Time Paths Linked by Love
原作: Sapphire Moon 91
翻訳: Yuki Neco

第1章: 上の階の物音

24歳の木之本桜は香港の大通りを歩いて、自分の小さなマンションの一室へ 向かってた。 その日の夕方は非常に忙しかった。 内容がなく、主人公の女性に ありえないような設定という退屈な恋愛映画を評価して、その映画の監督が、 映画の評価に対して物言いをしてきたのだ。

マンションに戻り、エレベータに入るとすぐ、電気が消えた。 「この辺で 停電なんて珍しい。」 と、さくらは眉をしかめた。 そう思っているうちに、 照明と電気が復活した。

「木之本さん、すみませんねぇ。 深夜になってからこの調子なんですよ。」 と ドアマンが声をかけてきた。 さくらは一瞬だけ愛想笑いを返し、エレベータに乗ると 10階のボタンを押し、エレベータの壁にしっかりともたれかかり目を閉じた。 今すぐにでもベッドにもぐりこみ眠りたい。 夜遅いのは、次の朝がさらに きつくなるだけで大嫌い。 エレベータが突然跳ね上がり、急ブレーキの ような音がして止まった。 「何なの?」 とさくらは声を上げ、 10階のボタンを強く押した。 そうしていると、 また変な現象が、今度はテレビとかコンピュータのような電気の類ではなく、 魔力の気配がした。 「彼はいない。 彼が死ぬところを私は見ていた。 と言うか、 死んでいく彼の手を握っていた。」 首を振りながらさくらはそう思っていた。 「私は葬式にも行ったし、今感じている魔力は彼のものではない。 でも、 李家の誰かが遊びに来ているのかも。」 そうは 考えたものの、納得しがたかった。 ブザーが鳴ったので、見上げてみると、10階の ランプが点灯し、軋む音もせずにドアが静かに開いた。 10階で止まったはずだが、 床は膝より高い段差になっていたので、さくらは眉が前髪のライン跳ね上げるように して驚いた。 「ったく、珍しいこともあるのね。」 さくらはそう思いながら、 大きな段差を乗り上げてエレベータを出た。 「以前、エレベータでこんなことが あったのは、11歳の時。 エレベータのシャフトの下へ落ちていった。 考えてみれば、 なぜそんなことをしたのか教えてくれなかったけど、あれはエリオル君が 仕掛けたことだった。 でも、あれはあれでいいこともあった。 小狼が私の名前を 叫んでくれたし、私がフロートのカードでエレベータに戻ってくると 抱きしめてくれた。 私を名前で呼んでくれたのはとても嬉しかった。」 さくらは 勢いよく頭を振って、思い出した記憶を払いのけようとした。

さくらは大またで自室のドアまで歩き、鍵を差し込み、綺麗に片付けた小さな一室に 入った。 「あっ、さくらが帰ってきた。 おみやげ、プリンは?」 背中に白い翼を持った小さな黄色いぬいぐるみのような生物が飛んできた。 その生物が向かって飛んでくるのを見て、さくらは思わず笑ってしまった。

「ケロちゃん、静かにしないと近所に聞こえちゃうよ。」 と、さくらは小声で注意し、 ケロが花瓶にぶつかりそうになって急停止し、すねた様子で台所に戻っていくのを 楽しそうに見ていた。 さくらは静かに笑う。 これは日常の様子だが、いまだに見ていて 飽きないのだった。

「さくらのカレシが上の階でヘンな物音をたてとるで。」 ケロはやぶから棒に そう言うと、残酷な現実に思考を戻し始めるさくらの注意を無理やりそらそうとした。

「元カレでしょ。」 静かな口調であったが、さくらが魔力をもっていることを 知らない人でさえ、その目つきから、肩まで伸びた黄金に輝く褐色の髪で、鮮やかな 緑色の瞳の、細身の女性にしては普通ではないと思うくらい危険な目つきをしていた。 それは見るからに、人の肌を貫き魂さえも見透かすような眼差しだった。

しかし、ケロはさくらとは14年以上の付き合いであるので、疲れ果てていた若い 女性から、力にあふれる様子に変わったのを見てもあわてることはなかった。

「まずは怒りをおさめるんや。 こんな態度は、お兄ちゃんとか小僧と 同じような態度の悪さや。」 ケロはさくらの気が静まるのを待ちながら、静かに つぶやいた。 たとえ本当に怒っていたとしても、さくらが真の力をあらわにするのは とても珍しいことだった。 だから、さくらがその小僧のことを考え続けているのだと ケロはしっかりと確信した。 そうしていると、さくらの魔力は最大限まで 増大するらしいことをケロは知っていたのだ。

「どんな音なの?」 さくらは少し落ち着くと、あらためて訊いた。

「あぁ、急いどるときにたてるようなそんな音や。」 と、ケロは肩を すくめながら答えた。

「それが?」

上の部屋からドスンドスンと大きな音がして、犬の声がしてから、 「ティベリウス静かに」 という声が聞こえた。

「ちょっと様子を見てみよか?」 と、ケロは返事がわかっているくせに、 そう訊いた。

「だめ。」 さくらは興味なさそうに、寝室に行きたそうに言ったが、ケロは そのとおりにしなかった。 ケロは、階段の踊り場に向かって開く人の背丈ほどの 窓に飛んで行き、鍵を開け、窓を押し開けると階段を沿いに11階の高さまで 飛んでいった。

「ケロちゃん!」 さくらは慌てて小声で言いながら、ケロを追いかけて窓の 外に出た。 さくらは階段を上って、上の階を窓越しに覗き込んだ。 彼女と同じ年で 濃い黒髪の青年が、何かを探している様子で、部屋の中で騒いでいた。 突然、 彼が振り向いて窓のほうに歩いてくると、さくらとケロは後ろにあったブロックの 影に身を潜めた。 窓が開く様子もなく数秒たって、さくらとケロは注意しながら 窓から覗き込んだ。 中の様子に二人は驚いた。

青年はブーツをはいた脚にしがみつき、ソファの上で (おそらくその脚の 持ち主を) たぐり寄せていた。

しゃがんでいたさくらは立ち上がり、そそくさと金属製の階段を降りて自分の 部屋に戻り、コードレス電話をつかんでダイヤルし始めた。

上の階から電話の呼び出し音と、フローリングを青年が歩く足音が聞こえた。

「もしもし。」 電話の向こうから、小さく、心配そうな声の返事が聞こえてきた。

「貴史、あなたまだ私のパームパイロット (携帯端末) もってるでしょ?」 と、さくらが訊くと、電話の向こうからうなり声が聞こえた。

「さくら、ちょうど今忙しいんだ。 じゃね。」 山崎が電話を切る音が聞こえた。

「電話切っちゃった。」 さくらは怒って書棚まで大またで歩き、百科事典で 隠れている最上段の隅から桜色の本を取り出した。 勢いよく本を開くと、そこには 何枚ものカードが入っていて、それらの裏面には中央に星が、一方の端には三日月、 もう一方には太陽が描かれていた。 彼女の意図がわかったかのように、 カードたちは互いにシャッフルをして2枚のカードが束の中から滑り出た。

「ありがと。」 さくらはにやりと笑うと、残りのカードと本にキスを送り、 本は最初に隠れていた書棚の百科事典の裏に戻って行った。 さくらが右側のカード、 サウンドのカードに触れると、高い音が発せられた。 その音はあまりに高く、 犬にしか聞こえないような音だった。 案の定、ティベリウスが吠え、柵にぶつかって 壊す音が聞こえてくると、山崎の走る足音が遅くなり、犬を押さえて柵の後ろに 戻そうとする様子が聞こえてきた。 さくらはもう1枚のカードを取り出すと ソファに深く座り、カードを頭上にあげた。 上の階の足音に続き、柵から足音が 遠のくと、さくらはカードを1回だけ親指でたたくと、電気ショックがカードから 天井を突き抜け、上の階に走った。 すると、青年が悲鳴をあげ、彼女の名前を 叫ぶのが聞こえた。 さくらは勝ち誇ったように腕を上げ、ソファから立ち上がると コードレス電話をつかんで再びダイヤルした。

「なんなの?」 と電話の向こうから声がした。

「私のパームパイロット。 まだ持ってるでしょ?」 さくらは電話に怒鳴ると、 天井越しに飛び上がっている音が聞こえて満足げだった。

「さくら、もう夜中の1時だよ。」 と山崎は文句を言う。

「もうすぐ2時ね。 でも、まだ起きてるみたいだし、何か問題でも?」

「さくら、何が目的なの?」 山崎は残念そうな声で訊いた。

「私の目的は、あなたが部屋で女の人に変なことをしていたの 見たことについてよ。」 と単刀直入に言った。

「言っておくけど、ここにいるのは男だよ。 そいつは友達で、1週間泊まるつもりだけど、 今日が最初の晩で、酔っ払っちゃってソファの上で寝てしまったんだ。」 さくらは山崎が うそつきであることを知っていた。 小学校のときから有名な話で、さくらは当時だまされ やすい性格ゆえに、山崎のウソの被害者の一人であった。 自分でも驚くことに、 さくらは山崎のウソのほとんどすべてにだまされていた。

「あのね、貴史。 私はあなたが今回のことについてウソついているのがすぐに わかっているの。 だから、何がどうなっているの? 私にはあなたがウソをついていること くらいお見通しなんだから、下手なウソでごまかさないでちょうだい。」

「君は真実が知りたいんだね。」

「そうよ。」

「で、君は今すわっているの?」 と山崎は質問した。

「そうよ。」 と、さくらは立ったまま答えた。

「そんなはずはない。」 と、貴史はすぐに言った。

「座ってるわ。」 さくらは立ったままピクリとも動かずにそういった。

「そんなはずはない。」 答えがすぐに返ってきた。

「座ってる...」 と、さくらは言いかけてすぐにあきらめた。 この調子で続けていたら お昼になってしまう。 彼女はソファに深く座り、ケロの耳を押し当て、何が起きて いるのかを聞かせた。

「さて。」 さくらはうなり声を上げる。

「見つけたんだよ。」 山崎が無表情に言うと、さくらは眉を上げ、はっと息をついた。

「何を見つけたの?」

「入り口さ。 時間の流れの裂け目。 イースト・リバーの向こうだよ、さくら、 僕が以前あるって言った場所。」 と、山崎は興奮したように言った。

「入り口を見つけた?」 さくらはうなった。 魔力がない、彼はあなたをだま しているだけ。 魔力なんてないんだから。

「1876年4月28日への入り口。 僕は香港島に飛び込んで、今日、1876年の世界を 歩いてきたんだ。 僕は、近いうちに李家のリーダとなる若者の後を追った。 って、 ちゃんと聞いてる?」 さくらとケロは、山崎が興奮して飛び上がるたびに 天井からほこりが落ちてくるのを見ていた。

「よく効いてるわ。」 さくらは爪を引っ張りながら言った。 できることなら、 こんなくだらない電話速く切ってしまいたいと、さくらは心底思っていたが、 山崎がウソをついていることを確かめなければと感じた。 この話は、山崎の話の 中で唯一、本当のことであってほしいと思う話だった。 というのも、これが 本当ならば、 何か悪いことが起こる前に、それを見つけ出し、それに関する すべてを閉鎖してしまうことができるからである。 彼女の心の中で ささやき声が聞こえ、さくらはうなってしまった。

「で、さくら、それだけじゃない。 これには意外な結末があるんだ。」

「意外な結末って?」 さくらは、また引き込まれているとい感覚を持ちながら ため息をついた。

山崎は深呼吸をして、声を落としてささやいた。 「そいつが 家まで来たんだ。」

「なんですって?!」

山崎は飛び上がって受話器を耳から腕いっぱいの距離まで離した。

「李家の次期主を連れて帰ったですって?」 さくらは怒鳴った。 「どうしてそんなバカなことを!」

「信じたの?」 山崎は驚いた様子で言った。

「わかったわよ。 あなたがバカだということが。」 さくらは、自分が取り 乱していること、さらに、山崎が言っていたことが真実であると本当に信じて いたことを呪いながら、はっきりとした口調で言った。

「つまり、信じてくれないんだね。」 と、山崎は傷ついたように言った。

「信じないわ。 それにね、貴史、私はもうあなたのカノジョじゃないのよ。 1ヶ月前から。 本当のことを言ってよ。」 さくらは部屋の中を足早に行ったり来たり しながら喋っていた。 彼女の肩に座っているケロは電話の 会話を聞こうとしていた。

「本当だってば、さくら。」 山崎は怒って言った。

「あなたは香港島に行って、オカマをお持ち帰りしたんでしょ。 もう知らない!」 さくらは声を上げながら言った。

「あのね、さくら、もういいよ。 結局、もうおしまい。 僕らも落ちたね。 君は... 一度も... 僕を信じなかった。」 山崎は ペースを変えながら言った。 さくらは不信感をもって口をあけた。 「信じたわよ、貴史。 信じたのよ、6年間も。 だまされたけど。」

山崎は深く息を吸い込むとため息をつき、受話器に吹きかけた。 「あのさ、 そいつが誰だか知りたくない? そいつが誰だか教えてあげるよ。 彼は ハッカーさ。 超一流の。 中国人で、東京で会った。 彼はコンピュータExpoで この町に来ている。 二人で出かけて、ごたごたがあって、ケンカをして、 うちのソファでのびてしまったんだ。」

さくらはベッドに深く腰掛け、安心と不安の間を引き裂かれるのを 感じた。 「で、それは本当のことなの?」 彼女は疑い深く尋ねた。

「ああ。 本当だよ。 ねぇ、安心した? これで、君や君のリサーチグループも 信じてくれるよね。」 さくらは受話器と天井をにらんだ。 彼が用心深く、 皮肉っぽくなったとき、言っていることが本当かどうかは区別が難しいのだ。

「あのね、貴史。 私はあなたのことで、一番楽しい数年間を無駄にしたの。」 大学時代、山崎の彼女になって再び楽しい人生を送り始めたこと、 山崎が力を尽くして彼女に笑いを与えてくれたこと、しかし、一度現実に戻り、 何かが起きて現実に打ちのめされることを考えると、さくらはため息をついた。 さくらはうなり声を上げた。 最近では、彼女は現実がいやになっていた。

「一番楽しい数年間? だって、君はその数年間の事を誰かのせいにしている みたいだ。」 さくらは黙って受話器を見つめ、傷ついていた。

「あ、もう。 わかった。 僕が悪かった。 もう切るよ。 君のパイロットは 朝になったら返してあげる。」 再びプツという音が聞こえて電話が切れた。 さくらはコードレス電話をテーブルの上に置き、照明のスイッチに指を 当てると部屋を暗くした。 さくらは目を閉じ、心の底深く束になって 今にも出てこようとしている惨めさ、悲しみ、苦痛を押し戻そうとした。 確かに、彼女は不幸と気分の落ち込みのため十代だった頃の長い期間を 棒に振った。 思い起こしてみると、彼女らしいさくらがいたのは、まだ 彼が生きていたときだけだった。

眠りに落ちていくとさくらは、また魔力の波動を感じた。 今度は、 山崎の部屋から魔力がしていたのだが、さくらはその力を 押し退けていた。

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